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出雲ビルの歴史

出雲ビル創立者・出雲益良の出生
出雲ビルは、出雲益良(いずもますりょう)が大正14年(1924)に建てた、松江で一番古い鉄筋コンクリート造りのビルとなります。
出雲家は、現在の山陰合同銀行本店横の路地が、井戸小路と呼ばれていた時分に、その周辺に住み宍道湖で漁業を行っていたようです。
その後、船を使った海運業を行い、出雲金蔵本店を白潟本町に開店し、陶器の販売などを生業とするようになりました。
益良は、父謙二郎と母ヤスの三男として1901年9月2日に松江の白潟本町に生まれました。
長男は幼くして亡くなり、次男が出雲金蔵本店を継ぎ、益良は、合名会社出雲ストアを立ち上げるべく、父 謙二郎に資金援助を受け、当時5万円で出雲ビルを建設しました。
しかし、そもそも大正末期から昭和初期にかけて『ストア』などと言う店舗の概念が無い時代に、
なぜ、当時は松江に無かった鉄筋コンクリート造りの『IDZUMO BILDING』を建設し、
出雲ストアを立ち上げたのか?と疑問に思われる方が多いと思います。
そこで、その経緯についての説明が出雲ビルの歴史を語る事に繋がると思います。
益良の渡英
出雲益良は松江中学時代、柔道部の猛者として活躍し、多くの試合を経験し、当時の写真が沢山残されています。
松江中学を卒業すると立教大学に進学しました。
『池袋駅のホームに立つと立教大学の校舎が見えた』と生前、本人が言っていましたので、
そのころの池袋駅周辺に建物が何もなかった事が理解されます。
その後、立教大学を中退してロンドンに留学しましたが、その理由は、おそらく陶器の勉強を目的とした渡英の指示が、
父謙二郎からあったものと推察されます。  
当時、航空機の定期便などはありませんでしたので、益良は船で渡英しました。
船旅では、後の東大総長 南原氏と同船し、船上でゴルフ等を楽しみ、途中インド洋のセイロン(現スリランカ)では船火事が起きたそうですが、
数か月の航海を経て無事ロンドンに到着しました。
当時のイギリスでは、東洋人は珍しい存在だったようで、イギリス人から随分バカにされ、
『得意の柔道で投げ飛ばしたいと思う事が何度もあった』
と言っていました。
日本に戻った益良
日本に戻った益良は、既にイギリスにあったデパートメントストアを見て、
日本でも同様な商売を始めようと思い立ちました。
そこで出雲ビルを建設し、合名会社出雲ストアを設立しました。
この前後に小西味噌店(現 錦味噌)の6人兄弟の末娘となる、芳子と結婚し一男三女をもうけました。
なお、後年、小西味噌店のブランド商品となる『錦味噌』を命名したのは益良でした。
出雲ストアはキッコーマン醤油の山陰地方の総代理店となり、
赤玉ポートワイン、マルカン酢、カルピス、ジョニーウォーカなどの飲料や、
はごろも缶詰やソーセージなどの卸業と販売を行いました。
主な顧客は販売店となり、松江市内の直販先としては、一文字屋、くらぶ食堂、県知事邸などがあり、
益良の次女となる京子を含め、子供たちも配達の手伝いをしました。
出雲ストアの開店当時は、店員が10名ぐらいおり、自動車の珍しい時代にT型フォードを購入して配送に使っていました。
また、益良は集金の足として、当時は大変珍しい赤いオートバイに乗っていました。
当時の出雲ストア
出雲ストア開業当時は、
地下1階が『サロン春』
1階で『食料品の陳列&販売』
2階『食堂』
3階『展示場/宴会場/ビリヤード場』
4階『ビアガーデン』に利用されており、
現在のデパートと同様な店舗構成となっていた事が理解されます。
しかし、開店当初はともかく、デパートとしての経営は苦しく、戦争が始まり物資が不足し始めると、商いを続ける事が困難となり、出雲ストアはデパート業務を続けられなくなりました。
戦時中は、販売する物資が無くなり、妻芳子が手作りの和菓子をリアカーに乗せ、古志原にあった陸軍の駐屯地に売りに行くなど、大変な苦労をしました。
出雲ストアは、よく言われるように商いとしては時代を先取りしすぎたのかもしれません。
戦後は、ビルの各階を賃貸で貸し出す事となりました。
当時、大きなビルの無かった松江において、数少ないビルとして野村証券、大正海上火災、錢高組などが、出雲ビルを松江の支店として利用しました。
益良は昭和55年(1980年)に79歳で亡くなり、
妻芳子が出雲ストアの代表となり、出雲ビルの賃貸業を維持しました。
そして、芳子が平成8年(1996年)に93歳で亡くなり、次女 京子が代表となりました。
昨年11月に出雲ストアは合名会社を株式会社に変え、出雲ビルは建築後93年目、出雲ストアは創業89期目を迎えています。
出雲ビルの設計
出雲ビルの設計者 大森茂氏は、野田醤油の『興風会館』(重要文化財)を含む多くの鉄筋コンクリート製となる建物を、関東周辺で設計しています。
益良は野田醤油の創業家となる高梨氏と懇意にしていましたので、
野田醤油と出雲ストアの商売上の関係から、大森氏は中国地方で唯一となる出雲ビルの設計を依頼されたと思われます。
以下は私が調べた事ですが、
明治から大正末期まで日本の近代建築は東京駅に代表されるように、建物の表面をレンガで覆う造り方が主流でした。
しかし、大正末期から昭和初期には、コンクリートによる構造が採用され始め、
低層階の表面は石を積み上げ、それ以上はコンクリート表面を細かい“石のつぶ”とモルタルで塗り固める方式が主流となりました。
この出雲ビルに採用された手法は、遠くから見ると建物全体が石作りのような印象を与え、建設当初は白く輝いて見えていたものと思われます。
同様な建築様式は、韓国の旧ソウル市庁舎(1926建築 重要文化財)や徳寿宮内の茶室 静観軒の柱にも見られ、このような建築様式が当時の流行であった事が理解されます。
出雲ビルの現在
出雲ビルは現在も、現役の賃貸ビルとして使用されており、
シャッター街となって久しい白潟本町で、今も営業している貴重な存在だと判断されます。
おしまれながら取り壊された尾原ビルなど、
古く、趣のある貴重な建築物が次々になくなり、駐車場しかない町へと変わっていく松江市の旧市街には看過できないものがあります。
松江城築城400年や国宝認定により、
最近では松江市への観光客の増加が見られますが、長期に渡り松江への旅行客減少に歯止めがかからない現実もあります。
その原因は風光明媚な地形を今風に整備したり、
また江戸時代から現代に続く、歴史的景観や文化財の失われていくこと、
つまり地域のステータスが無くなって行くことが、
その根本にあると思われます。
松江市の現状を嘆いていても現実は変わりません。
そこで『やらやね!』精神を尊重し、出雲ビルを拠点とした新たな街づくりの試みを、
今後も可能な限り続けて行きたいと思っています。
2017年1月22日 株式会社 出雲ストア 代表 出雲直人

出雲ビルの7不思議

出雲ビルには不思議が沢山あります。時代や歴史を背景としたこれらの不思議を探索してみてください。
1 双耳峰デザイン
北側の壁には、直線で構成された重なり合った山のような形が残っています。
これは、いったい何をデザインしたものでしょうか? ⇒隣に木造2階建ての家が建っている状況下、出雲ビルが後で作られ、
その後、隣家が取り壊され接していた壁が跡として残ったものです。
ビル北面には2Fまで窓が無い事も、その事実を示しています。
江戸時代?から続く町屋作りでは、隣の家と壁を共有しており、
出雲ビルの建てられた大正末期までその習慣が残っていた事を示しています。 
2 大工泣かせの床
初めて出雲ビルの修理に入られた大工さんは、床を貼っていると材料が足りなくなり、 床材と壁の間に隙間が発生して驚かれます。
⇒これは、ビルの敷地が正四角形では無く、ビルも現場合わせで敷地と同じ形に作られているからです。
このような事は、現在のビル建設では考えられません。
出雲ビル建設当時、施工した大工さんが民家を作った経験しか無かったので、
木造民家と同じように現場合わせで型枠を組んだ為と思われます。
3 徐々に斜いた柱 (柱がピサの斜塔に?)
⇒私も長らく気が付きませんでしたが、ある階の柱が垂直方向から目視で判断できるほど傾き、
斜めっています。この理由は不明です。
おそらくコンクリートの型枠を作るのに慣れておらず、このような結果になったか、
または深読みするとすべての柱が完璧では良くないとの判断があり、わざと1本だけ傾斜させたか、のどちらかだと思われます。
あなたもその柱を探して、出雲ビル建設当時に思いを巡らしてください。
4 避雷ドーム (君は出雲ビルのドームを見たか?)
⇒ビル周辺を歩いていても見えにくいのですが、4Fに避雷針があり、その避雷針はドームの上に立っています。
建設当時、出雲ビルは松江で一番高い建物であった可能性が高く、避雷針が必要だったと思われます。
しかし、わざわざドームを作り避雷針をその先端に取り付ける必要はありませんでした。
おそらく祖父、益良がデザインを重視した結果そのような仕様になったと推測されます。
5 曲線天井 (船が陸に上がるとは?)
⇒4Fの天井には微妙なカーブがあります。
このカーブを描いている梁は、船の材料を利用したものと言われています。
益良の父が、海運業を行っており、海から陸に上がって陶器の販売を始めた時、
不要となった船の廃材を利用して4Fを作ったと伝えられています。
6 IDZUMO BILDING (面白いローマ字表現はどこにある)
⇒出雲ビルの正面には、『ルビ雲出』の表記があります。
またビル正面の3F部分には、見えにくいのですが、『IDZUMO BILDING』の表記があります。
これらの表現や表記は、大正末期の時代をよく表しています。
7 海抜ゼロメートル (宍道湖の湖面の海抜は?)
⇒出雲ビル建設以前の松江の建物には、地下室と言う概念自体が無かったものと思われます。
それ以降の白潟本町や天神町の建物には、地下室が多く作られていますので、
出雲ビルや尾原ビルに作られた地下室が、以降この地域で流行ったものと思われます。
ところで、出雲ビルの立つ地盤の海抜は3m程度です。そうすると地下の床は、
ほぼ海抜ゼロメートルとなり宍道湖の湖面と同じ高さになります。
隣接して建っていた尾原ビルの地下が、浸水で使えなかった事を考えると、
出雲ビルの地下が、大雨が続いても僅かに水が溜まる程度で済んでいる事は不思議です。
また、1Fの天井の高さと比べて、地下の天井は大変低くなっています。この理由も不明ですが、
当時、建設重機は皆無でしたので、地下は人の手ですべて掘られたと思われます。
基礎を含めて人力だけで3m以上を掘るのは、大変な苦労だったと思います。
2017年1月22日 株式会社 出雲ストア 代表 出雲直人